1.ライト・スタッフ

2002年8月、父と僕は再びモンゴルの大地に立っていた…。

Team A-TECは、第8回ラリーレイド・モンゴルに挑戦するため、この大地に舞い戻ったのだ。

2年ぶりのモンゴルである。ラリーに向けて万全の体制を整えるために2年を費やした自動車整備士専門学校の校長でもある父は、新しくスバル・フォレスターを入手した。その車輌は、過去にモンゴル、そしてオーストラリアのラリーに出場した経験を持つ特殊なラリー・カーだった。それを2年かけて分解し、細部を丹念に調べ上げ、痛みの激しい部品は交換し、ボディにレインボーカラーの塗装を施して、再び組み立てた。

新しくなったのは車輌だけではない。今回のTeam A-TECは、ドライバーとナビゲーター2人に加え、新たにメカニック二名とチーム・マネージャー1名の5人体制になったのである。

メカニックは、自動車整備士専門学校の学生から2名が選抜され、チーム・マネージャーには職員の橋本義隆先生が指じ名された。学生の選抜にはかなりの時間を要したが、メカニックの座をつかみ取ったのは伊藤功君と、榎本晶君だった。

こうして私たちは、ラリー・チームとして万全の体制を整え、ラリーに臨むことになった。

8月9日、私たちンゴルに入国した。天空の大地は、変ることなく悠然とそこに鎮座していた。今大会は4輪7台、2輪72台がエントリー。出場選手には、なつかしい顔ぶれがそろっていた。

8月12日、ラリー開幕。われわれは、首都ウランバートルの郊外にある今大会のスタート地、ヌフト・ホテルを後にし、一路南に向けて走り出した。

当初、僕は、今回のラリーは大きなトラブルもなく淡々と8日間が過ぎるであろうと考えていた。事前の準備に余念がなかったからだ。車も今回は軽自動車ではない。メカニックもいる。モンゴルの道も体験済みだ。人為的なミスさえなければ、あまりにも順調すぎて物足らないくらいではないかと高を括っていた。しかし、この目論見は大きく裏切られることになる。

ラリーは、初日から波乱の幕開けとなった。この夏、モンゴルは極端に降水量が少なく、2年前のような輝く緑の絨毯はどこにもなかった。草は枯れ、空気は乾燥し、車やバイクが駆け抜けた後には、大きな砂煙が巻き上がった。風があまり吹かなかったために、巻き上がった砂煙はそのままコース上に滞留し、選手たちに大きな障壁として立ち塞がった。

砂埃は、さっそく私たちに牙を剥いた…。

この日、フォレスターは順調な滑り出しだった。2年ぶりのラリーではあるが、モンゴルの複雑なナビゲーションにもすぐに慣れ、父もドライビングの感をすぐに取り戻した。

午後三時をまわり、272キロ地点の村をスムーズに通過したときのことだ。突然、フォレスターの左斜め後ろの方向から爆音とともに、他の競技車輌が追い上げてきた。私たちよりも先にスタートした車輌だ。きっとミスコースをしたのであろう。遅れを取り戻すためか、その車輌はフォレスターに追いつくやいなや、強引にわれわれのすぐ目の前に割り込んだ。

そのときである。ものすごい量の砂埃や小石が、ジェット噴射のようにフォレスターに襲いかかった。砂煙の嵐は私たちの視界を奪った。連動するように、テール・トゥ・ノーズの位置にいたその競技車輌が急ブレーキを踏んだ。慌てて父も急ブレーキを踏んだが、次の瞬間、地雷を踏んだような激烈な衝撃が足もとを貫いた。フォレスターはギイギイと泣き喚くような音を出しながら、その場に止まってしまった。ステアリングが回らなくなってしまったのだ。

やがて霧のような砂煙が流れ、うっすらと視界が開けると、目の前には大きなクラックが口を開けていた。この硬くしまった大地の裂け目に左前タイヤが衝突し、その破壊力で左前方のロアアームが曲がってしまったのだ。

ロアアームの破損?僕はリタイアを覚悟した。これはタイヤのパンクとは訳が違う。

僕はあまりの運のなさに、焦るというよりも呆れてしまった。視界が開けていれば、難なく通過できた場所だ。たとえ、視界が塞がれていたとしても、ルートマップに注意書きがあれば、こんな事故は起こらなかったはずだ。

「これがラリーに棲む魔物か…」

僕は思わずつぶやいた。

ラリーはやはり、何が起こるか蓋を開けてみないとわからないのである。今回のラリーに対する僕の甘い目論見は、粉々に粉砕されたのである。

しかし、父は諦めていなかった。おもむろに工具を取り出すと車輌の下にもぐった。一か八か、ロアアームを交換するという。幸い、ロアアームの代替部品は持っている。自動車整備の設備など何一つない大草原のまっただ中で大修理が始まった。

父はここで、神業のような技量をまたもや発揮した。歪んでしまったフレームに新しいロアアームのボルトを通すのが至難の業であったが、これをタイヤレバーだけでやり遂げてしまったのである。その技術力に、僕はまたもや舌を巻いた。

大修理は1時間強を費やしたが、それによって私たちはリタイアの危機を脱したのである。その後はゴールまで、車輌を壊さないように慎重に走らざるを得なかった。

初日の成績は、総合44位。4輪は、なんと2台が初日でリタイア。菅原さんの次男、照仁選手の駆る手作りバギーと、若干22歳のボルドバートル選手のランクルが車輌破損のために、走行不能になってしまったのだ。またモンゴル人選手のロシアン・ジープ1台が未出走だったため、四輪部門では4位の成績であった。

ゴール後、車輌の整備は朝方まで続けられたが、メカニックのおかげで父と僕は体を休めることができた。これは大きなアドバンテージだった。

2日目、マンダルゴビからバルン・バヤン・ウランへ向かう574.33キロ。ラリーもまだ序盤戦だというのに、いきなりの砂丘越えが待っていた。しかもこれは2年前のような“名もなき砂漠”ではない。本物の“ゴビ砂漠”だ。

僕にとっては初めて遭遇する本物の砂丘。早くこの目で見てみたい。しかしその激しい憧憬の裏には、常に畏怖の念がともなっていた。フォレスターの砂丘での走破性が未知なのだ。雪のように細かく柔らかい砂で作られた、海のような砂丘を越えられるのだろうか。はたして僕の不安は現実のものとなった。フォレスターの弱点が一気に露呈したのである。

2.クリフハンガー

2日目のルートは、難易度的にはそれほど高くはなかった。2回ほどルート選択を誤ったが、1キロ程度で修正し、オンコースに復帰できていた。

途中2年前に、沼地でスタックした場所のすぐ近くを通過。マディな大地に一瞬、あのときの悪夢が甦るが、今回はミスコースなく突破に成功。リベンジをはたすことができた。

この日、最初のトラブルはまずナビゲーターに襲いかかった。GPSのデータが突然消滅してしまったのである。さすがに焦ったが、ドライバーに悟られないように、何事もないように振舞うべく努めた。父に余計な心配はかけられない。しかし、ツイているときはツイているものである。今回、たまたま予備のGPSを持ってきていたのだ。データもインストール済みである。使い方がよくわからなかったものの、さっそく新しいGPSに切り替え難を乗り切った。

次のトラブルは約500キロを越えた頃、ピスト選択を誤り、正しいピストに戻ろうと方向転換をしたそのときに起こった。高さ1メートルほどのブッシュに乗り上げてしまったのだ。ビッグホーンやロシアン・ジープは難なく脱出できたであろう。しかし車高の低いフォレスターは、下からブッシュの枝に持ち上げられるような形で天秤のような状態になり、いわゆる“亀の子スタック”になってしまったのである。目線が低く、ボンネントが長いこともありブッシュがまったく見えなかったのだ。

スコップでブッシュを何度も掘り返す。通りすがりの地元の人に手伝ってもらって車を押し、なんとか脱出するのに約30分を要した。

そして552キロを越えた頃、左手に砂の大海が姿を現した。それは目を疑うような光景だった。われわれの足もとにはドライレイクが広がり、その干上がった湖の上に砂丘が浮いているのである。それは“奇跡の砂丘”だった。

地平の彼方には、今にも溢れ出さんばかりの砂丘の砂を急き止めるように、険しい山脈が東西を貫いていた。砂丘は嵐の海のように大きく波打ち、しかしその嵐の一瞬、時間が止まったように静止している。その恐ろしいまでの静寂さ、その神々しさに僕は圧倒されてしまった。

しかし、すぐにわれに返った。ここから今日のゴールまで約20キロ、しかも、この奇跡の砂丘が20キロも続いているのである。こんな砂丘越えは初めての経験なのだ。私たちは足もとを確かめるように、抜き足指し足で進み始めた。そして最初の砂丘をゆっくりと登り切ったとき、突然、天が落ちた。

目の前の景色は、一瞬にして空に変った。足払いを掛けられたような、あるいは大地が横転したような感覚。地球に対して垂直に座っていた体が、なぜか上を向いている。それは天が落ちたのではなく、私たちが砂丘から落ちたのであった。ジェットコースターに乗って、重力に内臓をひっぱられたような感覚があった。目の奥にも軽いめまいが残っていた。

私たちは、砂丘のてっぺんから垂直に落ちたのだが、幸いなことに正面から突っ込むことはなかった。フォレスターの重心が後方にあったからだろう。

僕はすぐに脱出を試みた。砂丘に埋まったフォレスターをスコップで掘り返す。しかし、柔らかな砂は、掘っても掘ってもまたサラサラと崩れて足もとを埋めてしまった。柔らかな砂地は、僕の足の自由を奪い、照りつける強い陽射しとともに確実に体力を奪っていった。

日は大きく西に傾いていたが、それでも光線は灼けつくように強かった。流れ落ちる大量の汗。確実に奪われてゆく水分。のどの渇きが僕から声を奪った。

砂を掘り、掛け声とともに車を押す。しかしタイヤは空転し、砂を巻き上げるだけだ。

そのとき、アクセルを踏む父が叫んだ。

「あかん!クラッチが焼けた!」

ボンネットから立ち昇る煙とともに、鼻を突くとような臭いが辺りに立ち込めた。危機的な状況だ。クラッチが焼けてしまえばもう走れなくなる。ロアアームのように、交換部品をもってきていないからだ。どの程度焼けてしまったのか調べようもない。もう祈るしかなった。ここで諦めたくはない。

まだだ!もっと掘るんだ!ここから脱出できなければリタイアするしかないのだ‼水も残り少ない。僕はさらに力を込めて砂を掘り続けた。エンジンの調子も悪い。一端エンストしてしまうと、なかなかかからないのだ。

しかし、その追い詰められたギリギリの状況下で、僕は実に奇妙な感覚を覚えた。それは、背筋がゾクゾクするようななんともいえない快感だった。そこには、このトラブルを楽しんでいる自分がいた。襲いかかる大自然の脅威を、二人で力を合わせ克服する素晴らしさ。それを体験できる喜びと、これからおとずれるであろう湧き上がるような達成感に身震いしてしまったのだ。

トラブルを克服する楽しみ・・・。これこそラリーの醍醐味なのだ。僕はこのとき、この大トラブルに感謝さえ感じていた。悲壮感など微塵もなかった。僕は、必ず脱出できることを確信していた。そう、私たちは、大いなる何かに守られているのだ。怖いものなどあろうはずがない。

「もう一丁!」

そう叫んで、力の限りフォレスターを押した。首筋にはきっと血管が浮き立っていたであろう。鬼気迫るほどの気合が、僕の体にみなぎっていた。

「せーのっ、ハーイ!」

絶叫とともに、さらに力強く押した。父もめいっぱいアクセルを踏んだ。すると、いままでびくともしなかった車体が、牽引車にひっぱられるかのように砂丘の穴から飛び出したのだ。

「ヨッシャー!」

脱出成功。僕は楽しくて仕方がなかった。

その後、フォレスターはタイヤがバーストしてしまうトラブルにも見舞われたが、素早くタイヤを交換し、クラッチを焼かないように注意しながら、ほうほうの体でゴールにたどり着いた。

本当にハードな1日だった。とても2日目とは思えない疲労感だった。

フォレスターは、フラットな大地では抜群のパフォーマンスを示したが、ダートやガレ場での走破性に問題があった。車高が低く、凹凸の激しいダートではスピードが出せなかったのである。タイヤ選択を誤ったことも一因だが、砂漠での走行にも適しているとはいえなかった。

2日目の成績は、総合38位。4輪部門3位。ディフェンディング・チャンピオンであるダルハンジャルガル、ハグヴァシュレン組が、ロシアン・ジープのエンジン破損でリタイア。2輪も6台がリタイアしてしまったのである。ラリーは俄然、サバイバルレースの様相を呈してきた。

3.コミュニケーション・ブレイクダウン

3日目に入り、やっとラリーは落ち着きを見せるようになる。この日のルートは、バルン・バヤン・ウランのスタート地点が再びゴールとなるループ・コース。310.81一キロで競われる。

ここから私たちの猛烈な追い上げが始まった。

途中、“この先、難所!”と注意書きされるほどの、とんでもないルートが用意されていた。それは108キロ地点、山の頂を越えると一気に視界が開けた。山頂から眺めは雄大なパノラマであった。しかし、そこからの下り斜面は急激に角度を上げ、小石交じりの地面はとてもスリッピーになった。道幅も狭く、ところどころ逆バンクになっているためハンドル捌きやブレーキングのタイミングを間違えば、谷底へまっ逆さまに落ちてしまうようなルートだ。

ピスト上には、鋭くV字にえぐれた穴があった。迂回路はない。勢いをつけて一気に越えなければ、ホイールベースの長いフォレスターでは穴にはまって抜け出せなくなってしまう。

父は覚悟を決めて、一気に攻めた。

バコーン!メリメリメリ!

前後のバンパーが破れたが、背に腹は変えられない。

後半は一転、フラットダートが続き、フォレスターは今までのストレスを解消するかのように爆走した。

3日目の成績は、総合21位、4輪部門2位に躍り出た。この日、2輪は7台がリタイアした。

調子が上がり始めた4日目、われわれはついに4輪部門でトップタイムを叩き出す。

この日のルートは、バルン・バヤン・ウランから聖地ゾーモッドへの402.19キロ。比較的フラットな高速ピストが続いていたこと、逆順でスタートしたこと、そしてミスコースをしなかったことが勝因だった。

リア・ウインドーが割れてしまうというハプニングがあったものの、総合17位、4輪部門1位。まだまだ勝負できる。序盤戦のトラブルで大きく出遅れはしたが、勝利への欲求は日に日に強くなっていった。

5日目はゾーモッドのループ・コース。208.80キロと距離は短いが、道なき道を行くナビゲーションの難しいコースだ。当然、僕のナビゲーション魂に火がついた。

ルートは予想以上の荒地。ピストが薄く、コマ図も非常に細かい。細心の注意と集中力を要したが、気負うことなく理想的なナビゲーションができた。

この日の成績は、総合19位、4輪部門2位。しかし、4輪1位との差はわずかに6分35秒。ミスコースはなかったが、枯れ川など砂っぽいピストが多く、減速を余儀なくされた結果であった。4輪部門は生き残った3台で、熾烈な競走を繰り広げていた。2輪は昨日の1台に続いて、2台がリタイアした。

再び訪れることができた約束の地、ゾーモッド。聖なる泉は水量こそは減ったものの、その水は凛とした清々しさを保っていた。この泉のほとりに、二本の樹が寄り添うように一体となった樹がある。哲学者が深い思索にふけているようなその木には、僕を包み込むような暖かさがあった。

この樹に触れたとき、僕はある種のインスピレーションを受けた。2年前、われわれに、そして瀕死のジムニーに祝福を与えてくれた泉の天使はこの樹の精霊だったのだ。僕は感謝の念でいっぱいになった。僕は時間が経つのを忘れて、この樹の根元に座っていた。

6日目、ゾーモッドからホジルトへの600.72キロ。今大会最長のルートだ。移動距離が長い分、ルートは容易であろうと踏んでいたが、そんな甘い考えを嘲笑うかのように、昨日以上のテクニカルなコースが待ち受けていた。そして、チーム子連れ猪としては、チーム崩壊の最大の危機を迎えることとなる。

前半は、わりとフラットな高速ピストが続き、フォレスターは本領を発揮。一時、最高時速170キロを叩き出した。しかし、コンピュータが不調で、フォレスターの強みである高速走行を維持できない状態に陥ってしまったのだ。

後半は一転、荒れに荒れたダートが続いた。ピストが突然、消滅してしまう場所もあり、図らずもカップ走行を強いられることが何回かあった。おうとつの激しいピストで、我慢の走りを強いられたこともあり、父のイライラは頂点に達しつつあった。

526キロの村を通過する際、父のフラストレーションはついに爆発した。村の中の複雑なルートをスムーズに抜けられなかったことから、以後父はナビゲーターの言うことを聞かなくなってしまったのだ。

ゴール直前、丘の下にゴールを発見したのだが、そこへ向かうピストがなかった。僕はまっすぐゴールへ、ピストのない場所を直進するように指示を出したが、父は指示に従わなかった。ピストのある場所を探すと言って聞かない。細かなミスコースが続いたため、まったく信頼されなくなったのだ。

ゴール後、僕は手にしていたルートブックをダッシュボードに投げつけ、不満を露わにした。結局、僕が正解だったのだが、われわれに最大の強みであった信頼関係にヒビの入った今、チームとしては最大の危機に立たされた。

この日の成績は、総合21位、4輪部門3位に甘んじた。2輪は、あのジャガーさんを含む3台がリタイアした。

この日、私たちは転倒したジャガーさんの近くを通りかかり、助け起こした。ジャガーさんは、足の怪我がひどく意識も昏倒していた。バイクの損傷も激しくとてもラリーを続行できるようには見えなかったが、彼は走り続けるという強い意志をわれわれに示した。マップケースはグチャグチャに潰れ、GPSも所持していなかったので、次のRCPまでフォレスターの後をついてくるように言ったが、ジャガーさんは休んでから行くから先に行ってくれと身振りで示した。

ルートマップもなく、GPSも持たない彼がとてもRCPまでたどり着けるとは思えなかった。そこは地平線が360度広がる、何の目印もない場所だったからだ。しかし、なんと彼はその場所を探し当てたのだ。驚異的な感だった。

結局、その場で彼はドクター・ストップと相成ったが、僕は彼らモンゴル人の持つ不屈の闘志と鋼の肉体、そして状況を読む天性の鋭い感覚に敬服するしかなかった。

僕は後で、ジャガーさんに、なぜあの場所がわかったのかしつこく質問をした。彼の答えは

「風のにおいでわかった」

と、いうものだ。

こんな回答では到底納得のいかなった僕は、さらに疑問をぶつけてみたが、答えは同じだった。彼は笑いながら、こう答えた。

「モンゴル人にはわかるんだよ」

目が良いというのも一因であろう。しかし、さらにそれを上回る土地や方向に対するセンスが彼らにはあるのだろう。こんな逸話が残っている。1992年に開催されたパリ・モスクワ・北京ラリーに、二人のモンゴル人選手が参加していた。彼らはどちらもGPSを持っていなかったが、パリから北京まで完走したのである。

スポーツで、例えばラグビーやアメフトで、モンゴル人に良いコーチをつけ、本格的に選手の育成に力を入れたとしたら、きっと短時間で国際的にも通用する強力なチームが作れるのではないか。彼らの持つ精神的、肉体的ポテンシャルには計り知れないものがある。おまけにセンスも良いのだ。ジャガーさんを見ていて僕はそう感じた。

ところで、この日悲しい出来事があった。日本人選手が山間部で転落し亡くなったのだ。連日、賢明な捜索が続けられたが、結局1ヶ月後、彼は遺体で見つかった。ラリーには高いリスクがついてまわることは百も承知なのだが、残念でならない。

4.セレブレーション・デイ

7日目は、ホジルトのループ・コース、260.67キロが予定されていたが、ルート上にあるモンゴル帝国の古都、ハラホリン(カラコルム)で炭素病が発生。街が軍によって封鎖されているとの情報から、ETAP7はキャンセルされてしまった。

昨日のナビゲーションの失敗を取り戻すためにも、父からの信頼を回復するためにも、僕はこの日どうしても走りたかった。ルートも難しいと聞いていた。ナビゲーション勝負となれば、フォレスターにも勝機が出てくる。より上位に入賞するためにもこの日は落とせなかったのだ。

しかし、事態が事態だけに、このキャンセルはやむを得なかった。思わぬ休息日だった。しかし、初めてこの大草原をゆっくりと満喫できる機会を得たのだ。夕刻には主催者の粋な計らいで、民族音楽・舞踊団の演奏や踊りを堪能することができた。

大草原の真っただ中で味わう馬頭琴の響きには格別のものがあった。僕の涙腺は大いにゆるんだ。

そして、いよいよ最終日。ホジルトからウランバートルへの433.06キロ。ラスト1日で、父の信頼を取り戻すことができるのだろうか。

しかし僕は思った。失ったものは仕方がない。今の自分にできる最高の仕事をすれば、それで良いではないか。信頼などというものは後からついてくるはずだ。悔いのないように精一杯のナビゲーションをしよう。僕はそう決意していた。

それを知ってか知らずか、スタート直後から父は僕の指示に従ってくれた。こじれていた信頼関係はすぐに修復されたのだ。昨日、一日空いたのが良かったのかも知れない。

この日、コースは非常にイージーだった。ナビゲーターとしては手ごたえに欠けたが、無事に完走することができた。しかしイージーなルートでは、ナビゲーションでのアドバンテージを得ることができず、最終日の成績は総合32位、4輪部門3位という結果であった。

2大会連続の完走。前回同様、今回も奇跡的な完走であった。初日のロアアームの破損。2日目の砂漠でのスタックや、クラッチの焼けつき。GPSデータの消滅。タイヤも2度パンクし、エンジンも不調。コンピュータは高速を制御できなくなっていた。七日目には整備中にサスペンションのエアが抜けてしまうというハプニングもあった。ジープ・タイプではなく、普通車というハンデもある。

それらの悪条件を克服しての完走なのだ。僕は初日の事故のとき、ツキのなさを呪ったことを恥じた。運がなかったどころが、ものすごく幸運に恵まれていたではないか。僕は前回のラリーよりもさらに強く、グレート・スピリットの恩寵を身近に感じたのであった。

父は存分に、持てる力を発揮した。SS中に大修理を成功させ、車を壊さないように走る技術にも磨きがかかっていた。フォレスターでのモンゴル走破は、今から思えばある種のチャレンジだったように感じる。今回のルート状況を良く知る他の参加選手からも

「よくこの車高の低い車で完走できましたね・・・」

というなかば呆れたような賞賛の声を多くもらった。

しかし、上には上がいた。御歳61歳のミスター・ラリー、菅原義正選手だ。今大会、菅原さんは、ホンダ・パイロットという400CC単気筒のサンドバギーで出場したのである。この車輌で、3000キロ以上もの走行距離を走るラリーに参戦したのは、おそらく菅原さんが世界で初めてであろう。データがまったくないため、菅原さんは何から何まで手探りで準備しなければならず、悪戦苦闘の連続だったらしい。

しかし、ポンポンポンと軽快な2サイクル音を響かせるこのサンドバギーで、菅原さんは完走したのである。彼こそ真のチャレンジャーであり、真の開拓者だ。

第八回ラリーレイド・モンゴル。トータル3342.99キロ。われわれの最終順位は総合25位、4輪部門、堂々の完走、3位入賞であった。4輪部門の完走率が50%、全体で63%だったことを考えると、よく生き残れたと言わざるを得ない。

これはチーム全体の勝利だ。日に日にたくましくなるメカニックの二人とチーム・マネージャー、橋本先生の整備のおかげで、安心でフォレスターを走らすことができた。彼らは連日、深夜までフォレスターの整備に余念がなかった。このチームの総合力が、われわれを完走、3位入賞に導いたのだと思う。

モンゴルでのラリー開催は、残念なことに今大会で最後となってしまったが、またいつの日か、この神々の棲まう大地で父とともに走れる日が来ると信じている。

父は前回のラリーが終了した後、

「もうこんな大変なことは2度とごめんだ」

と、僕に言った。

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、新しいラリーカーを手に入れた。そして2年の準備期間を経て、国際ラリーに2度目の挑戦をはたしのだ。

砂漠の砂を掘り返しながら、楽しくて仕方なかった僕は、完璧なラリー中毒者であるが、父も十分に立派な重症ラリー中毒者だ。

チーム子連れ猪の挑戦は、まだまだ続く!

※本レポートは、2002年当時の記録です。