①死と復活の大地

 3月15日夕刻、僕はサンフランシスコ行きユナイテッド航空830便の機上にいた。目的地はメキシコ!海外への渡航は実に3年ぶりだ。長かった。本当に長く辛い3年間だった。僕の命の糧である“旅行”に行けなかったことが辛かったのではない。生きる目標を見失い、生きる意味さえ失いかけた。報われない努力。崩壊した未来のヴィジョン。心を蝕んだ絶望の闇…。極限状態を彷徨い続けた3年間だった。

 しかし、暗闇はいつまでも続かない。光は既に見えている。僕は決断した。過去の“しがらみ”を断ち切ることを。その“しがらみ”が僕の目を曇らせ、無駄な努力を延々と続ける因果だからだ。その“しがらみ”の正体とは、“カルマ”だ。

 すべてを手放した今、僕の前には無限の可能性が広がっている。これは僕にとって人生最大のピンチでもあるが、人生を切り替える最大のチャンスでもあるのだ。しかし、この3年間の激闘の疲れは、予想以上に僕の肉体と精神を蝕んでいた。ここから新しい人生を再スタートさせるためにも、少しでいいからリラックスした時間が必要だった。

 最善の方法は、環境を変えることだ。異文化なら尚いい。異国の空気を吸い、言葉の通じない人々と会話を愉しみ、食べたこともない味覚に舌鼓を打つ。ピュアな大自然の精霊に癒され、想像力を喚起させる古代遺跡やスケールの大きな景観に心踊らせる。そんな瞬間を持つことが、僕にとっては最高のヒーリングなのだ。

 だが時間がない。3月8日のライブを終えた時点で、僕の心はまだ決まっていなかった。4月から新しい生活をスタートさせるつもりだった。しかし、表現が適切ではないかも知れないが、新しい生活をスタートさせるための馬力が足りなかった。そのための“生命力”が不足していたのだ。

 「行こう!今しかない」

僕は決めた。出発の3日前にフライトチケットを購入した。メキシコ・シティ行きが1席だけ空いていた…。

 「なんでメキシコなの?」

これは日本でもメキシコでもよく訊かれた質問だった。何故だろう。明確な理由はない。ただ、なんとなく次はメキシコと決めていた。しかしそれは1人旅ならばの話だ。本来は、ネイティブ・アメリカンの居留地へ行くつもりだった。アメリカのセドナやサンタフェ周辺だ。でも1人ではいくつもりは毛頭なかったので、結局メキシコにした。

 “1度も行ったことがない土地へ”というのも大きな理由の1つだ。“観るべき遺跡がある”というのも大きい。“友人がいる”というのもある。だが一番の理由は、“メキシコの大地が呼んでいた!”ということだ。

 メキシコには、“死と復活”というイメージが僕にはある。これは主観的なイメージなので、説明が難しい。それは古代のアステカ文明やマヤ文明のイメージから来ているのかも知れない。アステカの遺跡に多く見られるドクロのモチーフ。それは古代の残酷な生贄のイメージを喚起させる。現在でもメキシコには骸骨をモチーフにした造形や、お土産が多い。ドクロは死を連想させるので、忌み嫌われることが多いがメキシコのドクロは、アッケラカンとしている。花に囲まれ、明るく踊る骸骨カップルの人形なんてのもある。とても楽しそうなのだ。それが余計に“生”を際立たせる。

 この国には、日本のように生と死を別ける習慣がないのかもしれない。死は、生のすぐ隣にあるものなのだ。僕らはいつ死ぬのかわからない。それは明日かも知れないのである。だからこそ、メキシコ人は今日を思いっきり楽しく生きる!悔いのないように。

事実、メキシコ人の自殺率は世界でも最低レベルだそうだ。日本人は死を意図的に隔離することによって、死の可能性を考えないようにしてきたのかもしれない。それは感覚の麻痺に近い。

 マヤ文明にも強い興味があった。そこに伝えられる知恵や知識の中には、地球と調和し宇宙のリズムと調和しながら生きていくための秘密がある!そんなイメージを持っていた。それを本格的に学びに行こうと言うのではない。その教えの一滴に触れられるだけで充分だった。

 マヤには有名な13の暦のカレンダーがある。そして2012年に今の宇宙が終わるという予言もある。4年後に迫った宇宙の終わりとはいったい何を意味するのか。こういう想像力を刺激するミステリーは、いつでも僕を童心に帰してくれる。このワクワク感が僕には必要だった。

 とにかく弱くなった生命力を補充するのに、そして過去を捨て新しい人生の第一歩を踏み出すのに最適な地が“メキシコ”だったのである。だがそんなことはどうでもいい。訊かれたから答えただけの話だ。とにかく旅に出たかっただけだ。

 それに今回は計画がまったくない。いつもなら完璧な計画書が出来上がっているのだが、今回は何もない。時間がなかったというものある。しかし本当は何も考えたくなかったのだ。かなり頭が疲れていた。せっかくリラックスの旅なのに、またマインドを酷使して疲弊したら無意味である。

 「まあ、なんとかなるだろう」

ハートが僕の行くべき場所に連れて行ってくれるだろう。今回の旅ではマインドは一切使わない。そう決めていた。旅のガイドは“空”におまかせ!もちろん宿泊するホテルもルートも何も決めていない。決まっているのは、これから14時間後に、メキシコ・シティに到着するということだけだ。

 「さあ、楽しくなってきた!」

こんな感覚を待っていたんだ。

②高原都市の怨念

 出発前、実は咳が止まらなかった。3月に主催したライブの2週間ほど前に風邪をひき、その後アレルギー症状が出て、咳が止まらなくなっていた。夜も眠れないほど酷い咳がずっと続いていた。原因は明らかだった。ずっと食べ続けていた“玄米”をストップしたからだ。

 玄米を食べ続けていたこの2年間、風邪をまったくひかなかった。玄米を採らなくなったのは、単に物理的な理由である。ストックしていた玄米がなくなったが、買いに行く暇がなかったのだ。それで体質が元に戻ってしまった。

 ライブ後すぐに玄米を購入し、食事療法を実践していればこんなに苦しまずに済んだのかも知れないが、結局機内にまで激しい咳を持ち込んでしまった。メキシコ・シティまでの14時間は、まさに苦行だった。

 やっとの思い出でたどり着いたメキシコ・シティ。身体は弱っていたが、久しぶりの異国の大地に胸が躍った。すえた廃棄ガスの匂いが、僕をワクワクさせた。タクシーの窓の外に流れるメキシコの午後の景色。雑然とした街並みのカラフルな概観。見慣れたアジアの街並みとも違う。これがラテンの雰囲気というものか。

 空港からほどなく大きな幹線道路に乗り、メキシコ・シティの中心地に出た。立ち並ぶ高層ビル群。道路に溢れかえる車。携帯を片手に行き来する人々。想像以上に大都市だ。僕はまず今夜の宿を決めなければならない。毎度のことだが、事前にホテルの予約などしない。その日泊まる宿はその日に決める。それが一種の旅の流儀のようになっていた。

 ただしスムーズに決まらないこともある。部屋が空いてなければ問題外だし、料金や設備など条件面が折り合わないこともある。それでも今までの旅では、宿を見つけるのにそれほど困った経験はない。コツは適度に妥協することだ。条件を詰めたらキリがない。

 条件が合わなければ別のホテルを探せばいい。しかしそれがこれまで比較的容易だったのは、安宿街が存在したからだ。インドのデリーには、パールガンジと呼ばれる有名な安宿街がある。タイのバンコクにはカオサン通りがある。1晩500円から1000円で宿泊可能な宿が軒を連ねているので、ダメなら隣の宿を訪ねればいい。

 しかしどうやらメキシコ・シティには安宿街はなさそうだ。土地勘もない。僕はガイドブックを横目で眺めながら、適当なホテルをピックアップした。ホテル・ガリシア。ピンク色の概観が目を引いたのと、そのホテルの所在地がガリバルディ広場にあることが決め手になった。

なぜかって?“ガリバルディ”って響きが気に入ったからだ。

 ただし周囲に別のホテルはなく、ここで断られたらやっかいなことになる。重いバックパックを背負って、右も左も分からない街を数キロ彷徨わなければならないからだ。14時間の長旅に加え、咳がまだ止まらない。早く疲れた身体を休めたいというのが本音だった。

 「まあ、なんとかなるだろう」

正直、不安はまったくなかった。今回の旅は、計画性は皆無だが、“マインドを使わずハートで行動する!”と決めていた。ハートが直感で決めたホテルだ。それに従おう。マイナス要因を挙げればキリがないが、それはマインドのついた嘘だ。

思ったとおり、ホテル・ガリシアは僕を大歓迎してくれた。

 翌日、早速街に繰り出した。レフォルマ通りをチャプルテペック公園方面へ歩く。が、何かおかしい。気持ちとは裏腹に、脚が前に進まない。すぐに息が切れるのだ。咳が治まらず、心肺機能が低下していたこともあるが、とにかくすぐに疲れてしまう。標高2000メートルという高地に居を構えるこの街は、平地に比べて酸素濃度が3分の2程度なのだという。よくオリンピックなど開催したものだ。釜本さん、あんたは凄いよ。

 疲れを癒しに来たのにも関わらず、この環境は僕にさらなる苦行を強いることになった。咳は治まるどころかさらに酷くなり、夜もまともに眠れなかった。市内の名所を廻り、念願のテオティワカンも訪問したが重い身体を引きずりながらの行軍で、楽しむ余裕はあまりなかった。

 しかしこの違和感はいったい何だろう。この街にいる間、ずっと付きまとっていた異様な感じ。これまでの3年間の疲労が一気に噴出しているのだろうか。それもあるが、それだけではない。その理由は街の名所を廻るうちに、僕の中で少しずつある感覚として確信に変わっていった。

それはこの街に渦巻く強烈な“怨念”だったのである。

 メキシコ・シティはスペイン人が侵入する以前は、先住民であるアステカ人が築いた神殿やピラミッドが立ち並ぶ壮麗な大都市だった。それは湖の上に築かれ、テノチティトランと呼ばれていた。独自の文明を持つアステカ帝国の都である。

 16世紀初頭、エルナン・コルテス率いるスペイン軍は、アステカ帝国をあっさり征服する。以後約300年に渡ってスペインによる植民地支配が実施されるのであるが、この間にスペイン人は、先住民が築き上げた偉大な文明を徹底的に破壊する。それはおそらく日本人には到底理解できないであろう大虐殺であり、破壊工作である。

日本も20世紀の前半に中国大陸で同様の行為を行ったではないかという反論があるかも知れないが、およそ中国文明を消し去るには至っていない。スペイン人の行為は文明を一つ、形残らず消し去るほどの破壊である。スペイン人は神聖なるアステカの神殿や宮殿を壊し、その上にキリスト教の協会を建て、支配者の宮殿を建て、スペイン風の街並みを築いていった。貴重な古代の知識やそれを記した文献は、この時代にほぼ失われた。

 侵略者コルテスは、カトリックを速やかに浸透させるために、アステカの神々を祀る神殿を意図的に破壊し、カトリック教会を建造したのである。これは精神文化の蹂躙である。彼らが蹂躙したのは精神文化だけではない。忌まわしい民族浄化に等しい行為も行っている。その結果として誕生したのが、現在の“メスチーソ”と呼ばれる混血民族であり、混血文化である。

 メキシコ人は確かに陽気だ。細かいことを気にせず、誰にでもオープンで人生をおおらかに捉えている。しかしそれは、こんなにも過酷で悲しい歴史の反動なのかもしれない。その強い悲しみや怨念は、DNAレベルで彼らの身体に刻まれているのであろう。

メキシコ人の明るさやラテンの華やかな雰囲気とは正反対のこの怨念は、街中のいたるところで感じることができる。骸骨のモチーフ、グロテスクな巨大壁画など。メキシコを取り巻く死のイメージは、ここから発せられたものなのかもしれない。しかしその怨念がコントラストとなって、より一層メキシコ人の生きることへのパッションを輝かせているように感じるのである。

 このような血なまぐさい歴史に加えて、高原地帯の低酸素が一層サイケデリックな感覚を呼び覚ます。眠れない夜の昂ぶる動悸。短時間だがヘンテコな夢も見た。軽くトリップしているようなものだ。メキシカン・デザインのあのカラフルなグラデーションや奇抜なデザインは、このような環境から創造されるのかも知れない。ちょうどチベットの曼荼羅が、とてもサイケデリックなように。高地における低酸素状態には、このような覚醒をもたらす効果があるのかもしれない。

 ガリバルディ広場では、毎晩深夜までマリアッチ楽団による音楽の演奏が続けられていた。マリアッチとはスペイン語でギター弾きのことだが、みんなチャロと呼ばれる民族衣装を身にまとい、いかにもメキシコ風なソンブレロをかぶった4~5人のバンドが、客のリクエストに応えて曲を演奏しているのである。

 バンドの数も半端ではない。屋台が立ち並ぶ広場の中で、思い思いに陽気でリズミカルなメキシコの伝統音楽の饗宴が繰り広げられている。ちょっとしたお祭りのようなものだ。それが平日、週末問わず毎晩催されているのである。

 旅ののっけから面白い場所に陣取ることができた。いかにもメキシコ的な風物詩を、ここに滞在した3日間、屋台のタコスをほおばりながら大いに満喫した。後で聞いた話だが、このガリバルディ広場は、実はメキシコ人でも警戒するほど治安の良くない場所だったらしい。知らないということは強い。

でも屋台のおやじやお客、レストランの従業員がいつも愉快に歓迎してくれた。弱っていた気力や体力も彼らのおかげでかなり回復した。メキシコの大地が歓迎してくれたのかも知れない。そのことに感謝しよう。

③マヤ・アステカの遺産

 メキシコに来た目的には、もちろん遺跡探訪がある。これまでに世界中に散らばる多くの遺跡を訪れた。それは僕の子供の頃からの夢であり、ライフワークだ。北半球に残る主だった遺跡はだいたい訪問した。ピラミッドやアンコール・ワット、ぺトラにカッパドキア、タージマハルにも行ったし万里の長城も見た。残っているのはペルーのマチュピチュやイースター島のモアイ、そしてメキシコの遺跡群だ。

 このように、僕がどうしても観て見たい遺跡や遺物の一つに、メキシコの“アズテック・カレンダー”があった。“太陽の石”または“カレンダー・ストーン”とも呼ばれている。それは直径3.6メートルもの巨大な石板であり、舌を出した太陽神の尊顔を中心に、複雑でユニークなモチーフが幾重にも刻まれた円盤である。

 それは幾つもの針を備えた羅針盤のようにも見える。もし、四方に飛び出した針や円の外周を動かすことが可能であれば、計算尺やコンピュータのようにも見える。事実、このアズテック・カレンダーは、マヤの知識を継承したアステカ人の暦であり、彼らの神秘的な宇宙観を表現しているのである。

 中央の太陽神の周りにある4つの四角い文様は、これまでに存在した4つの時代を示している。各時代ごとに新しい太陽が生まれ、そして滅び、現在は中央にある5番目の太陽“トナティウ”の時代であるという。このようないくつもの異なる時代が存在し、世界は破壊と再生を繰り返しているとする伝承は、マヤやアステカだけのものではない。同様の伝承は、ギリシア神話、ネイティブ・アメリカンの神話、インド神話にも登場する。

 ギリシア神話では、最初に神によって創造された「黄金の人種」の時代、「銀の種族」の時代、「銅の種族」の時代、「英雄の種族」の時代を経て、現在の「鉄の種族」の時代を迎える。ちなみに「銅の種族」は世界的な大洪水で滅びているらしい。

 ホピ族は現在を「第4時代」としており、その以前に3つの時代があったとしている。インド神話では概念が上記とは異なるものの、クリタ・ユガ、トレータ・ユガ、ドワパラ・ユガ、カリ・ユガという宇宙周期の概念を持っており、各周期ごとに時代性が異なるとしている。

このような“世界の破滅と再生”の伝承が、地理的条件を超越して世界中の神話の中に共通して存在することに、どのような意味を求めることができるだろうか。神話は歴史ではない。その多くが口伝であり、語り継がれる過程で人々の逞しい想像力で装飾され、時代時代のパラダイムが織り交ぜられたものである。それを後に書き留めたものが神話として現代に伝えられているのだが、必ずしも神話が史実ではないとは言い切れない。

確かに神話には、現代の常識をはるかに超越したファンタジックな要素が満載である。神々は、“天の浮き船”や“ヴィマーナ”という空飛ぶ船に乗って世界を飛び廻り、人間を遥かに超越した能力で“八叉の大蛇”や“ヒュドラ”といった魔物を倒す。また“ガネーシャ”、“ホルス”、“ガルーダ”、“アヌビス”など象や鷲、ジャッカルの顔を持つ神々が活躍し、インド神話では“アストラ”という核兵器まで登場する。アステカやマヤの神話においても、最高神ケツァルコアトル(ククルカン)は空からやってくる。

しかし、神話は多分にメタファーなのではないか。そこには誇張があるものの、真実が幾分含まれている可能性は否定できない。それを証明する証拠もないが、否定する材料もない。それを「あり得ない」と一刀両断するのは、現代人が教育によって刷り込まれたパラダイムによる偏見が成せる業であろう。

そもそも現代の考古学は、文明の発展過程を過去から現在への一方向的な流動性のみを前提条件としている。つまり、時間軸を過去へ遡れば、文明レベルは低くなっていくのが当然であり、過去に現代をしのぐテクノロジーが存在することなど問題外なのである。

しかし、文明の“螺旋状的な発展過程”という視点を見逃すことはできない。そもそも人類は4~5000年というタイムスパンで、現代文明のレベルまで到達することが可能なのである。現生人類が地球上に登場してから、すでに20万年という時間が経過している。その間の5000年から1万年というスパンで、何度も文明を発達昇華させ、衰退あるいは崩壊させていたとしても、僕は特別疑問を感じない。

螺旋的な歴史観とは次のような観点である。人類は文明を発展させていき頂点を極めたものの、地球規模の自然災害や大戦争といったカタストロフィーによってそれが崩壊し原始レベルに戻ってしまう。つまり円を一周する訳である。そしてもう一度文明を発展させながら円を周っていく。このような発展と衰退、創造と破壊を延々と繰り返しながら歴史は螺旋状に進んでいくというものである。

その観点からいえば、アトランティスやムーという現代を遥かに凌駕するテクノロジーを持った文明が、有史以前に存在していたとしてもまるで不思議ではない。むしろ、ギザの3大ピラミッドが4500前に唐突に出現することの方が非論理的である。エジプト考古学の矛盾点は、過去に遡るほど建造技術が高度になっていくことである。つまり、ピラミッドの建造技術は、3大ピラミッドを頂点として、これ以降極端に衰退するのである。これは現代考古学のパラダイムにおける前提条件に反するどころか、皮肉ですらある。

こう考えていくと、神話も超先史文明の歴史がベースになっている可能性もあるといえるのではないであろうか。

例えばギリシア神話。神々というにはあまりに人間的である。最高神であるゼウスは激しく怒り、狂おしく嫉妬し、多くの女性を愛した。僕がギリシア神話をアトランティスの物語なのではないかと思うのは、このような理由からである。下半身が馬であるケンタウロスは、まさしくバイオテクノロジーの産物ではないのか。

“アズテック・カレンダー”には、現代人の知り得ない「5番目の太陽の時代」という宇宙の真実が刻まれているだけではなく、僕の想像力を刺激する強力な魅力を携えていた。僕の好奇心を捕らえて離さないこの“太陽の石”は、国立人類学博物館にあった。入場ゲートをくぐり、中庭をはさんで最も奥の建物の中央で、他の遺物を従えるかのように鎮座していた。

始めて見る“太陽の石”。巨大なその石版は、遠くからでもその圧倒的なエネルギーで僕を惹きつけていた。牽引されるように近づいていく。目を離すことができない。胸の奥で、何かが“カチッ”と噛み合うような感覚がった。

太陽の石には、世界の終わりが記されているという。それは2012年12月23日である。これは“アセンション”を意味するとする解釈もある。アセンションについては様々な見解が示されているが、僕は世界の終わりだとは考えていない。終わるのは“5番目の太陽の時代”なのである。つまり、アセンションとは、新しい“6番目の太陽の時代”の幕開けを意味していると考えている。

あと4年で、僕らは宇宙規模の大イベントを経験できる訳だが、そのような重要な時期に、アセンションへの手がかりを示した“太陽に石”を直接見ることができた。この意味は大きい。しかし今の僕にとって、意味の内容やそれを理解することはもはや重要ではない。“そこにいた”ことが重要だったのである。

博物館には、“太陽の石”だけではなく、メキシコ中の重要な出土品が展示されている。世界でも屈指の充実度であろう。ここにある古代の秘宝は、時にユーモラスで時に毒々しい。

第7室にはこの太陽の石を中心に、ホール左手にアステカ人が崇拝したコアトリクエ像が鎮座する。ユニークなのは、これが日本人の感覚からすると到底神々には見えないことである。舌と牙を出した蛇の頭を持ち、腹部には切り落とされた人間の首がある。そこから滴り落ちる血が2匹の蛇になっている不気味な神像である。確かに死の神であるのだが、他の神々を生んだ母なる女神でもある。

他にも骸骨をモチーフとした像が多い。古代アステカのデザインは、非常にドゥーミーでそれは現代のヘヴィ・メタルに通じる雰囲気がある。メタルチックなアステカのデザインは、面白い発見だった。Tシャツのモチーフとしても充分クールである。

これが第9室のオルメカや第10室のマヤになると、雰囲気が一気に変わる。オルメカもマヤも、アステカのような殺伐とした緊張感からは解放されていた。第10室の地下には、パレンケの王墓がその石棺や翡翠のマスクとともに展示してある。メキシコのツタンカーメンといわれる、パカル王の翡翠のマスクや石棺も、僕の好奇心を大いに捕らえて離さなかった。

メキシコ滞在2日目、僕は有名な“太陽のピラミッド”に向かった。“太陽のピラミッド”はテオティワカンと呼ばれる遺跡群にある。この遺跡も、僕の「どうしても観たい世界の遺跡」ランキングの上位にランクインしていた。

待ちに待った“太陽のピラミッド”が、前方の車窓に姿を現す。その高さは65メートル、底辺の1辺の長さが225メートルと、世界で3番目の大きさを誇る。エジプトのピラミッドと違い、台形型の四角錐を5層に積み上げた形をしている。正面に登頂用の階段があることも大きな特徴の一つである。頂上が平坦なのも印象的だ。

車を降り、巨大な“太陽のピラミッド”と正対する。しかし、何も感じない。エジプトで感じたような、背骨を突き抜けるような感動がない…。

さらに近づいてみる。スケールは確かに大きいが何かが違う。エジプトのピラミッドは生きていた。正しい作動法さえわかれば、今でも充分に機能する印象を受けた。インスピレーションもクリアーに降りてきた。

しかし、テオティワカンの“太陽のピラミッド”には、そういった気配や雰囲気がない。

「こいつは生きてないなァ」

僕は思わず、ため息をついた…。

④ククルカンの降臨!

3月18日、僕はメキシコ・シティからユカタン半島にあるコロニアル都市、メリダまで一気に移動した。チチェン・イツァーという遺跡で、年に二度だけ起こる地球規模の大イベントに参加するためである。

それは春分の日と秋分の日に起こる。チチェン・イツァーにあるピラミッドに、羽毛の蛇の姿で現される最高神ククルカンが降臨するのである。ピラミッドの北側階段を、巨大な蛇の影がスルスルと舞い降りて来る。太陽の移動と階段ピラミッドの斜面を利用して、意図的に影を作り出しているのである。天体の移動周期や高度な測量技術なくしてはあり得ない現象である。このピラミッドは、マヤ文明の高度な天文学や建築技術を象徴しているのである。

この“ククルカンの降臨(エキノカーション)”は、たとえメキシコにやって来たとしても、春分あるいは秋分の日でなければ見ることはできない。天候にも左右されるので運もある。一生に一度観られるかどうかの大イベントなのである。幸いにもあと2日で春分の日だ。このチャンスを逃す手はない。

メリダに到着した僕は、さっそくチチェン・イツァーまでの1DAYツアーを申し込んだ。一人でバスに乗って訪問してもいいのだが、このイベントにはおそらく世界中から相当な数の人が集結するだろう。帰りの交通手段を確保しておくためには、ツアーが最適なのである。

エキノカーションは、春分の日をはさんで3日間観ることができるらしい。つまり、明日19日から春分の日である20日、そして21日である。僕は20日のツアーを申し込もうと思ったが、代理店の説明によると21日が最もクリアーに観察できるらしく3日間の中でも重要な日であるらしい。

僕は迷ったが、結局直感に従った。21日に決めたのである。以前だったら“春分の日”という概念が強く捕われて20日を選んでいたことだろう。しかし、今回の旅はそういう思い込みやマインドが作り上げた概念に惑わされず、ハートの声を聴くための旅なのである。ハートが21日に反応した。それでいい。迷いはない。

エキノカーションまでまだ3日ある。僕は翌日、メリダ近郊にあるもう一つの有名な遺跡、ウシュマルに行くことを決めツアーを申し込んだ。ウシュマルは7世紀頃に創建されたマヤ・プウク様式の装飾的な遺跡である。遺跡のいたるところに、雨の神チャックの神像で飾り立てられている。

1DAYツアーにはかなりの数の人が集まったが、その大半がメキシコ人だった。ツアーはスペイン語グループと英語グループに別れ、それぞれガイドがついた。英語グループは僕を含めたったの5人。中華系フランス人とパレスチナ人の女性、フランス人カップル、そして年齢不詳の日本人だ。国籍も文化的背景もまったく異なる旅行者との交流を楽しむことができるのも、1DAYツアーの醍醐味である。

ウシュマル遺跡の規模は小さい。しかし、独特の丸みを帯びた“魔法使いのピラミッド”やモザイク柄やチャックのレリーフで飾り立てられた尼僧院など見所は多い。魔法使いのピラミッドは、その丸みを帯びたフォルムがどことなく女性的で優雅な印象を与える。

このピラミッドは、小人が一晩で作り上げたという伝説から“魔法使いのピラミッド”と命名されている。そういえば、エチオピアのラリベラ遺跡にも同様の伝説がある。そこには、ただの迷信ではなく、真実を照らし出すなんらかの共通したファクターがあるのかもしれない。

翌20日は、メリダの街でのんびりと過ごした。メリダの街の中心部は、植民地時代の面影を色濃く残しており、ピンクやイエロー、スカイブルーといったパステルカラーに塗られた欧州的な装飾を持つ建物が軒を連ねている。

石畳の路地がソカロ(公園)を中心に碁盤の目状に広がり、樹木の木漏れ日の下には、歩道を占領するようにオープン・カフェの椅子とテーブルが置かれていた。僕は木漏れ日の下で、コーヒーをすすりながら1日読書でもして過ごすつもりだったが、あいにく雨が降り出した。

ウシュマルを訪ねた昨日も、実は途中から雨が降り出した。天候が不安定なのである。通常、この季節に雨は降らないそうなのだが、ここ数年エルニーニョ現象の影響で雨が降るらしい。

雨が降れば当然、エキノカーションは観ることはできない。曇りでも然りである。つまり19日も20日もククルカンは降臨しなかったのだ。明日もどうなるか分からない。ここに来て目的の現象が観ることができない可能性が俄然高くなってきた。メキシコまでわざわざ来たのにである。

ただ僕には焦りはなかった。観られなければ観られないまで。執着する必要もない。全ては“空”まかせだ。それに、僕にはちょっとした自信もあった。なにせ“宇宙”が添乗員としてついてるんだから。

翌日、チツェン・イツァーの上空は見事なまでに晴れ上がっていた…。

チチェン・イツァーはかつて、ユカタン半島に広がるマヤ文明の宗教、芸術、経済における中心地であった。美しく端正なククルカンのピラミッドが中央に聳え、奥には壇上にチャック・モールが横臥する戦士の神殿が控える。虚空を見つめるこのチャック・モールには、生贄として戦士の心臓が捧げられたらしい。

またチチェン・イツァーとは、マヤ語で“泉のほとり”のイツァー人という意味である。ユカタン半島最大のセノテ(聖なる泉)を中心にして都市が繁栄したことから、そのように呼ばれている。

泉には雨の神チャックに対して生贄が捧げられていたと歴史書にはある。実際、チチェン・イツァのセノテからは8体の女性、13体の成人男性、21体の小児の骨が発見されている。そしてこれが生贄の根拠とされているのだが、僕はここに違和感を覚える。生贄としては、あまりに数が少ないのではないか。

現在に残るマヤ族の長老の一人、フンバツメン氏は次のように語っているらしい。マヤ文明は実は非常に平和な文明で、生贄など存在しなかったのだ、と。ではなぜ、チャック・モールに捧げられた心臓に代表されるような、残酷な生贄が史実として認められているのか。

それは、マヤ族が侵略者である白人に間違った情報ばかりを教えた事が原因になっているそうだ。マヤ族は秘密を保持するためにそうしたらしい。あり得ない話ではない。現在でもメキシコ原住部族に対して有形無形の圧力があるらしい。例えば、マヤ族が自分の部族の歴史や伝統、培われた知識や知恵を子孫に語り継ぐこと自体が禁止されているそうなのだ。

彼らの話が事実だとすれば、ここでも大きな歴史のパラダイム・シフトが起きるであろう。そうなると血塗られたチャック・モールの存在理由は、コペルニクス的転回をみせることになる。あくまで主観的な印象だが、僕はフンバツメン氏に軍配を上げる。

午後3時、昼食を終え遺跡に戻ると、目を疑うような光景が広がっていた。いつの間に遺跡が人で埋め尽くされているのである。約3万人の観光客が世界中から集結していた。これからがエキノカーションの本番だ。蛇頭をしつらえたピラミッドの中央階段の側面には、すでに曲がりくねった神の御影が映し出され始めていた。

3万人の観衆が時に息を呑み、時に大きな歓声を上げる。雲が太陽をさえぎると、みな手を空にかざし、太陽が再び顔を出すように祈り始めた。再びまぶしい光が輝きだすと、ククルカンが出現し、静まり返っていた空気が大歓声に変わる。太陽と地球、そして古代マヤ文明の偉大な天文学と建築技術が創りだす壮大なショーに、みなが酔いしれているのである。

この一体感は気持ちいい。観衆の中には長髪にバンダナを巻いたようなヒッピー系の若者も多く、まるでウッドストックのようだった。

ククルカンは、その雄大な姿をゆっくり動かしながら降臨し、そして突然消えた。午後5時、晴天だった空に雲が広がり始めると、待ってましたとばかりに雨が降り雷を呼び激しい嵐となった。僕は嵐の合間を縫って、奇跡的にもククルカンの降臨を目撃することが出来たのだ。その前日でも前々日でも不可能だった。これも“空2のおかげであろう。メキシコ旅行の大きな目的をまた一つ果たす事ができた。

⑤カリブ海でのセレモニー

エキノカーションという今回の旅の大きな目的を一つ遂げた僕は、もう一つの大きな目的を遂げるためにユカタン半島の東へ向かった。そう、カリブ海である。僕はこれまでの旅でビーチを目指した事はほとんどない。例外的にあるのは、バリ島とタイのパタヤぐらいだ。それにこの時は、一人旅ではなく同行者がいた。

ビーチは物価が高い。それにこれまでの旅では自分探し的な要素が強く、リゾートでのんびり過ごすよりも冒険や刺激、新しい出遭いを求めていた。ビーチには、そもそも一人で訪れるような旅行者は少ない。そのほとんどがカップルや家族連れ、友人同士であるため、新しい友人を見つけようと思ってもなかなか難しいのが現実である。

しかし、今回はどうしても海に行きたかった。身体がビーチを求めていたからだ。理屈ではなく、僕のハートが心から生命力に満ちた母なる海を求めていた。ビーチで何も考えず、ただボーっと過ごしたかった。こんな衝動は初めてだ。よっぽど疲労困憊していたのだろう。

東に向かったバスは、そのまま有名なカンクンには向かわず南下した。途中トゥルムを経由してカンクンの南約65キロに位置するプラヤ・デル・カルメンを目指した。これも勘である。別段、情報を持っていたわけではない。訪問した事がないので憶測だが、カンクンはリゾート地として有名過ぎるし、喧騒も凄いであろう。物価も高いはずである。

僕は静かでのんびりとしたビーチを望んでいた。予想に違わず、プラヤの街にはリラックスした空気が漂っていた。今夜の宿を探しながら街の中心部へ歩いていくと、路地の奥からカリブ海が僕に向かって輝いていた。それはまさしく輝いていた。

見たこともない色だ。こんな海の色は今まで見たことがない。

濃淡のあるターコイズ・ブルー、インディゴ・ブルー、エメラルド・グリーンが何層にも折り重なって縞模様を作っていた。これだ、この感覚を求めていたのだ。魂が震えるような感動。このヴァイブレーションが僕の凝り固まった魂に、新しい活力を注ぎ込んでくれる。

大自然の美しさにこれほど感動したのはいつ以来だろう。僕は小躍りしながら、“空”に感謝した。夕暮れのビーチ。僕は海を目の前に眺める事の出来るレストランのテラス席に陣取り、シーフードに舌鼓を打ちながらレモネードで海に乾杯した。

翌日、僕はさっそく海に向かった。午前のビーチは、人もまばらだ。裸足の足の裏の鋭敏な感覚が、真っ白なビーチの砂を捉える。僕は誘惑に耐え切れず、透明な海の中に入っていった。身体がこんなに要求するのは、面白い体験だった。身体が海水を欲していたのだ。

透明な海はどこまでも美しく、まるで真水のようである。確かに塩辛いのだが、磯臭さはまったくない。波はとても穏やかだった。僕は遠浅の入り江を、軽い波の抵抗を押しのけながら沖の方へ進んでいった。

周りにはほとんど人はいない。僕はここで儀式をすることにした。“復活のセレモニー”だ。別に作法があるわけではない。僕が勝手に行うだけだ。儀式というより、ケジメなのかもしれない。これまでの3年間の苦悩をこの海で一切洗い流す、そういう区切りを打ちたかった。方法は何でもいい。ただ具体的な“形”が欲しかっただけだ。これは“膿出し”であり、“生み出し”でもある。

僕は両手を左右に伸ばし、仰向けに海に浸かった。チャポンという音とともに、僕の全身は海に包み込まれた。顔は出したまま耳まで海に預けた。雑音は何も聴こえない。いや、正確には海の深い律動のような音が静かに流れている。

この浮遊感。この安心感。まるで母親の羊水の中に浮かんでいるような感覚だった。

真っ白になった。

地球に抱かれて、地球と一体になって、僕は真っ白になった。これまでの穢れはすべて洗い流された。僕は、身体の隅々から生命力が浸透してくるのを鋭敏に感じた。“満たされていく”感覚でいっぱいになった。

そして海の中で思いっきり泣いた…。

その時、気がついた。僕はずっと寂しかったのだと…。無条件に抱きしめてくれる誰かをずっと欲していたんだと。今、それが満たされた。

これで、もう大丈夫だ。僕はここで生まれ変わった。これで前に進める。

セレモニーは10分程度で終わったが、僕は優しい海の感触を求めてしばらくの間、波と戯れていた…。

カリブ海の彼方に陽が落ち、街の灯りに火がつき始めると、昼間の閑村は一気に歓楽街へと姿を変える。夜の喧騒にはまったく驚くばかりだった。僕は一人、カフェのオープンテラスでコーヒーを飲むみがら、弾き語りのライブを楽しんだ。

演奏される曲は、聴き慣れたスタンダードな曲ばかりだ。U2やストーンズ、Mr.BIGやガンズと幅広い。演奏経験のある曲も多い。やはり、こういう時間は誰かと共有したいものだ。一人では限界がある。友達になろうにも、周りはカップルや友人同士ばかり。

ビーチはやはり一人で来る所ではない。今度来る時は、絶対誰かと一緒に来よう。僕はそう誓った。

ところで、僕の興味は遺跡だけでなく、現地の食にもある。現地にいったら現地のものを食べる。これが僕の流儀だった。僕は食に関しては好き嫌いはほとんどなく、ゲテモノや内臓系以外は問題なくいける。

旅行先で日本料理屋に入ることなど滅多になく、食の面でホームシックにかかった事など皆無であった。しかし今回は違った。メキシコ料理は、僕が期待した以上の満足感を僕に与えてくれなかった。

もちろん、サルサ・ソースは大好物であるし、タコスも好きである。それだけでなく、メキシコ料理にはさまざまな料理のバリエーションがあり、食文化という面でも非常に洗練された文化をもっていて興味深い。そのバリエーションを一通り試してみたかったのだが、困った問題が起こった。

メニューがまったく読めないのである。何とかなるだろうと高を括っていたが、スペイン語のメニューは僕の連想力をまったく寄せ付けず、勘で注文した料理は僕の期待を裏切る事が多かった。それに肉食が中心であるため、疲れているときなどは身体が拒絶反応を起こした。そのため、必然的に安全パイであるタコス中心の食事になってしまったのである。

タコスは確かに安いし美味い。しかし所詮ファースト・フードなのである。毎日食べて入れば当然飽きる。食の楽しみを失った上、タコスやメキシコの主食であるトルティーヤはトウモロコシから作られており、トウモロコシばかり食べていた僕の身体は、突然米を要求し始めた。

こんなことは今までの旅ではあり得なかった。

僕は、改めて自分の身体は米で作られている事を実感した。そして改めてアジア人である事を実感したのである。

そんな時、僕はプラヤ・デル・カルメンの片隅に一軒の中華料理店を見つけた。そこではカウンター越しに並べられた料理を一種類200円ほどで選べるようになっており、僕はチャーハン大盛りと焼きそばや酢豚などをむさぼるように食べた。久々の満足感。結局、プラヤに滞在した3日間、毎日この店に通う事になった。

ちなみに、メキシコ・シティに戻ってからであるが、メキシコ料理の最高傑作といわれるモーレ料理を食べた。これは鶏肉などに唐辛子、木の実などを加えたチョコレート・ソースをかける料理である。完全なる未知の味だ。

僕は興味深々で、ポジョ・エン・モーレを口に運んだ。それは予想に反してかなり美味しかった。チョコレートがはたしてお肉に合うのか疑問だったが、カカオの甘みの中にスパイシーな風味が共存するそのソースは僕を満足させた。

未知の味ではあるものの、どこか親しみのある味だった。そう、これは味噌カツの味噌に近いフレーバーを持ってたのである。味噌カツの味噌にカカオを混ぜた感じなのである。きっと中部圏出身者であれば、問題なく食が進み、むしろ絶品と感じるのではないだろうか。

⑥巨人との邂逅

3月25日、カリブ海でのセレモニーを終え、僕は充分にリラックスした贅沢な日々を過ごしたビーチを後にした。いよいよ旅の後半戦の始まりである。夕刻、プラヤ・デル・カルメンを発ったバスは一路南に向かい、ベリーズ国境の近くをかすめながら進路を西へと変えた。ユカタン半島をぐるりと一周しながら、バスは次の目的地ビジャエルモッサへと向かった。

夜明け前に目的地に着くと、バス停の前にあったホテルにチェックインをして、お昼までぐっすり眠った。太陽はすでに空高く、通りを歩く人々の影は著しく短くなっていた。僕はシャワーを浴び、目的地であるラベンタ遺跡公園に向かった。

ビジャエルモッサの街はタバスコ州の州都ではあるものの、どこにでもある普通の街である。グアダラハラやメリダのような植民地時代の面影も少なく、街中に特別な観光資源もない。パレンケ遺跡への中継基地として訪れる観光客は多いが、この街自体を目的としている観光客は少ないのが現実だ。

したがって大手旅行会社のツアーでは、大抵組み込まれていない。しかし多くの観光客がスルーしていくこの街には、僕にとってどうしてもはずせないオーパーツが存在する。“オルメカの巨大人頭像”である。

それはこの街のラベンタ遺跡公園にある。ここは世界的にも珍しいアウトドアの博物館である。1925年に出土した石碑や石像の数々を、草木の生い茂る1周約1キロのジャングル仕立ての敷地内に配置したユニークな公園である。

公園内には動物園も併設されており、サルやジャガーを横目で見ながらの遺跡見物は、さながら秘境探検をしているような雰囲気を演出してくれる。公園内には全部で33個の石碑や石像が存在し、空を見上げる猿の像やイルカの石像、まるで“どこでもドア”のような異空間の扉の向こうから子供をかかえて出てくる男の石像など、想像力を極限までかきたててくれるようなミステリアスな出土品に溢れている。

中でも一番心惹かれたのが、“オルメカの巨大人頭像”である。高さ2メートル、重さ約20トンの巨人の顔は、熱帯雨林を演出した森の中に忽然と現れる。木漏れ日を浴びながら、静かにしかし強い威厳を放ちながらそれは鎮座していた。

実は今回の旅の中で、僕が最も強く心をギュッと鷲づかみにされたのがこの巨人である。直感的にとても感じるものがあった。事実、この巨人の写真には多くのオーブが映りこんでいた。

この石像は紀元前1200年から紀元前400年にかけて造られたらしい。オルメカ文明はメキシコの数ある文明の中でも特に古い。興味深いのは、巨人の顔である。それはまるでアフリカ系の黒人なのである。この時代のアメリカ大陸には、ネグロイド系の人々はまだいないとされている。しかしこれは、明らかにアメリカ先住民族の顔ではない。

オルメカとは、アステカ語でゴムの国の人という意味らしい。ゴムが採れる熱帯地方からの渡来人とも推測できるが、それがもし事実であるとすればアフリカの歴史が大きくパラダイム・シフトすることであろう。

僕は静かに、巨大人頭像の前に佇ずんですっと彼を眺めていた。するとどこからともなくインスピレーションがやってきた。

「これはスフィンクスだ!」

僕の頭の中で何かがスパークした。意味はよくわからない。しかし突然、そんなヒラメキがやってきたのである。エジプトの有名なスフィンクスは、その建造目的や建造時期、建造者など諸説入り乱れており、はっきりとした定説はない。その顔も、一応教科書的にはカフラー王をかたどったものだとされているが、それもかなり怪しい。

建造時期についても従来のエジプト考古学では4500年前とされているが、スフィンクスの胴体に刻まれた雨による侵食痕に着目した地質学者にロバート・ショックによれば、スフィンクスの建造時期は少なくとも1万1千年以上前ということになるらしい。

それはエジプトが、現在のように砂漠に覆われる以前の降雨量の多い気候を有していたのが、1万1千年前だったという地質学的な根拠による。このような学際的な研究成果によって、むしろ考古学以外の分野から従来の定説を覆すような新発見が続々と続いているのが、エジプト考古学の現状である。

ギザの3大ピラミッドがオリオン座の3ツ星に対応している事を発見したロバート・ボーバルもエジプト考古学者ではない。『神々の指紋』で一世を風靡したグラハム・ハンコックにおいてはジャーナリストである。

エジプト考古学の権威は、彼らの飛躍的な研究成果を決して認めようとしないが、僕の感性は彼らのような在野の反骨の志士達による主張に共鳴している。そのハンコックによれば、スフィンクスの顔の形状は黒人種の特徴を色濃く反映しているらしい。

現在のスフィンクスは、鼻がもがれ傷みも酷いために三角頭巾をかぶったその顔の形状がわかりにくい。しかしよく観察してみると、その厚い唇や力強い頬骨などにその特徴を見出す事は可能である。

スフィンクスが、もし黒人種をかたどったものであるとするならば、オルメクの巨大人頭像との共通点を見出す事も可能である。僕は巨人の右サイドに立ち、その横顔を眺めた。顔の角度や形状などが、スフィンクスの横顔と合致した。

僕の心は躍っていた。この石像は生きている。そんな印象を強く持った。

翌日、僕はパレンケ遺跡へ向かった。今回の旅で最後の遺跡である。パレンケは、7世紀にパカル王の時代に最も繁栄したマヤ古典期後期を代表する遺跡である。800年もの間人知れずジャングルの中で眠りについていたが、18世紀になって発見される。

パレンケへ向かう道中、緑濃い熱帯雨林のジャングルがパノラマのように目の前に開け、美しさと神聖さを醸し出していた。パレンケ遺跡は、平地ではなく山の中腹にあった。ジャングルの中で静かに佇むその遺跡は、まさに“聖地”であった。どこまでも平和で、清らかな空気があたりを満たしていた。下界とはまるで別世界である。強力な結界がいまだに作用しているのかも知れない。

パレンケ遺跡もウシュマルなどと同様に規模は小さい。しかし、そこには他のどこにもない聖域としての清らかな波動で満たされていた。それは僕をとても幸せな気分にさせた。こういう遺跡も珍しい。中央の宮殿には、中庭をはさんでアーケードや地下通路が複雑に巡らされており、かつては水洗トイレやスチームバスもあったという。マヤの建築技術の高さを物語る建物である。

宮殿の右手には碑文の神殿がある。この地下から1952年にパカル王の王墓が発見された。それはツタンカーメン王の発見と双璧を成すと讃えられるほど、センセーショナルな出来事であった。墓室の中央に安置された20トンの巨大な石棺には、翡翠の仮面を被ったパカル王の遺骸と副葬品などが発見された。

エメラルド・グリーンに妖しく輝く翡翠の仮面も印象的であるが、なにより石棺の蓋に刻まれた図柄がさまざまな物議を醸し出した。そこには、バイクにまたがるような背中を丸めた格好で操縦桿を握るパカル王と、パカル王を乗せて宇宙を駆け巡るかのような宇宙船と思しきレリーフが刻まれているのである。

考古学的には、パカル王がまたがる宇宙船の操縦機器のようなデザインは、生命の樹であると説明されている。しかしとても植物には見えない。むしろ非常にメカニカルな印象を与える。しかもご丁寧に、ロケットの後部ではジェット噴射まで描かれているのである。

これは確かに、僕らの想像力を大きく揺さぶるレリーフである。さまざまな解釈が存在するが、決定的な定説もない。よくわからないというのが、本当のところではないのだろうか。考古学者がいくらへ理屈をこねようとも、ミステリアスな造形物は時代を越えて僕らを浪漫溢れる世界に誘うだろう。

栄華を誇ったパカル王の遺骸や翡翠の仮面、そして石棺は、現在メキシコ・シティの国立人類学博物館にひっそりと展示されている。

⑦アミーゴとの絆

3月28日、僕はメキシコ・シティに舞い戻った。日本へ発つまでまだ3日ある。そして僕にはまだ最後のミッションが残されていた。それは友人のアラン・ザビッキーに再会することだった。

メキシコ入国直後に彼と連絡は取れたものの、会う時間が取れなかった。僕がエキノカーションに間に合わせるために、すぐにメリダへ飛んだからだ。持ち時間は3日しかない。今度は彼のタイミングが合わなければ、再会は難しいであろう。

しかし、すべては“空”まかせ。逢うべきであれば、問題なく逢えるであろう。はたして、携帯電話のベルが3回コールするのを待たずに、彼は応答してくれた。

「よっしゃ!ブエノス・ディアス!アミーゴ」

翌日、僕らは再会した。偶然にもその日は土曜日であり、彼の仕事も休みだった。約3年ぶりの再会。彼は僕を見るなり“オー!ブラザー”と叫びながらギュッと抱きしめた。

アラン・ザビッキーはメキシコ人であるが、メスティーソではない。人種的にはユダヤ人である。おじいさんの時代に、一家がメキシコに移民したのだそうだ。それは1930年代の事。ナチス・ドイツがヨーロッパを蹂躙した時代に、一族はポーランドに居を構えていたのだが、ナチスの迫害を逃れてメキシコにやってきたのだそうだ。そこには想像を絶するドラマがあったのだろう。

僕がアランに出遭ったのは、3年前のインドである。僕らは、タージ・マハルで有名な街アグラにいた。僕が宿泊した安ホテルに彼もいたのである。そこは中庭が美しく手入れされた小洒落たホテルで、西欧人の旅行者が多く滞在していた。中庭はオープン・カフェになっており、日が暮れると社交場に変わった。

僕は一人で読書をしていると、カナダ人の女の子に声をかけられた。お互いの旅の行程を話していると、そこに彼女と一緒に旅をしているイングランド人の女の子が加わり、さらに隣のテーブルをも巻き込んで僕らの輪はにぎやかになった。そのテーブルに腰掛けていたのがアランである。

僕らはすぐに意気投合した。彼もバックパッカーであり、豊富な旅行経験を有していた。僕らはお互いの旅の話、インドの印象、最高の思い出、冒険談、お互いの半生や人生観について語り、ついには日本文化や日本製アニメ、映画『リング』の貞子とジェイソンなどのハリウッド製モンスターとの本質的な違いなどについても激論を交わした。

たった一晩交流しただけである。しかし僕らは国籍を超えた特別な何かを感じていた。兄弟の絆のような感覚である。日本人以外でこんな感覚を味わったのは、3人目である。残念ながら1人目とは交流が途絶えてしまったが、2人目のエジプト人、ムハンマド・ガブリエルとはお互いに連絡先を交換しなかったものの、エジプトに行けばすぐに見つけることが出来るし、今でも繋がっている感じがしている。

中でもアランとは不思議な縁で繋がっている。これはアランが言っているのだが、彼のファミリーネームであるザビッキーと僕のサイキがよく似ているというのである。それに年齢もまったく同じ。彼は広告の仕事をしていて、僕は広告の研究をしている。お互い旅行好きであること、そして聴いている音楽、読んでいる本なども同じであった。親近感を超えた奇妙な符合がそこにはあった。まるでツイン・ソウルのようだ。

3年ぶりに会うアランの容貌は、以前とまったく変わっていなかった。相変わらずヒッピーのように長髪を後ろで束ねていた。いや今でもヒッピーなのである。インドから帰国後、彼の生活は大きく変化していた。結婚し、広告会社を始め、子供にも恵まれていた。インドの後、彼は前進し、僕は停滞した。そういう意味でも、今回の旅でアランに会うことは、僕にとっては友情以上に大きな意味があった。

アランは愛車のゴルフに僕を乗せ、夜のメキシコ・シティを詳細な解説つきで遊覧してくれた。その後、ソカロにある伝統的なバーで乾杯した。そこはパンチョ・ビラやフリーダ・カーロなどが通い、多くの伝説を彩った場所なのだそうだ。

そしてお祭り騒ぎの夜の街を見物し、2軒目のアランの行きつけのバーへ出かけた。そこはアランの親友が経営しているバーで、常連客はみな顔見知りのようだ。アランは一人一人に僕を紹介してくれた。みんな気さくで、陽気で、ファッショナブルでクールだった。

中にはメキシコ人が誰でも知っているという伝説のロックバンド、カフェ・タクバのギタリストもいた。アランは彼も紹介してくれたのだが、メキシコではジミー・ペイジ・クラスのスーパースターであるにも関わらず、まったく奢りのない素敵な紳士だった。

僕らはコロナ・ビールを傾けながら、お互いの近況について語り合った。3年も会っていないし、ましてやお互いについてほとんど知らない。しかしこうやって会話を始めればその距離や溝は一瞬にして埋まってしまう。地球の裏側に住んでいても、僕らの距離はとても近いように感じる。やはり彼はソウル・ブラザーだ。

アランの話のほとんどは、奥さんであるハイディと生後6ヶ月の愛娘ミラちゃんのことばかりだった。娘が可愛くて仕方がないらしい。仕事も会社を立ち上げた当初は大変だったそうだが、奥さんであるハイディが仕事をして支えてくれたそうだ。今では仕事も軌道に乗り、当初3人だった社員も今では20人に増えている。仕事も家庭も充実し、ほんとうに幸せそうだった…。

メキシコ滞在最終日、僕は再度ティオティワカンに向かった。“太陽のピラミッド”を登頂するためである。チチェン・イツァーもウシュマルも既にピラミッドの登頂が禁止されており、エジプトのピラミッドにおいては警戒も厳重である。登れるピラミッドがあるなら登れるうちに登っておきたい。

僕はローカルバスに乗り込み、一路ティオティワカンを目指した。ところがここで僕はとんでもないことをやらかした。バスの中でうっかり寝てしまったのである。気がつくと遺跡は既に通り過ぎ、サボテンがまばらに生息する荒涼とした大地の中を走っていた。

「やっちゃった~」

これはまずい。現在位置だけでなく、バスの行き先すらわからない。英語は通じないし、スペイン語はまったくわからない。バスの乗客や運転手に自分の意思すら伝える事が出来ないのである。一瞬血の気が引いたが、人間とことん追い詰められると、冷徹なまでに冷静になれるものである。

焦っても何も解決しない。僕は考えた。今、ここで下車するのは最悪である。ピラミッド行きのバスやタクシーを見つけるのは困難であろう。ヒッチハイクをしようにも言葉が通じない。それに周囲には村もお店もなく、路頭に迷うのが落ちである。ひとまず、ある程度大きな街まで出るのを待とう。そうすればメキシコ・シティ行きのバスぐらいあるだろう。こういう時こそ、“空”にまかせるのだ。

しばらくすると、バスはそこそこの規模の村で停車した。僕はここで降りるかどうか迷ったが、一人の少年が僕に眼で合図をしてきた。

来た来た!“空”の使いだ。

彼は僕の状況を理解していたようだ。彼は英語が話せる上に、親切にも僕をピラミッド行きのバスまで連れて行ってくれた。そして運転手に話をつけ、爽やかに立ち去っていった。この時ほど、メキシコ人の優しさに感謝したことはない。もちろん“空”にも感謝したことは言うまでもない。そして、あっさりと“太陽のピラミッド”登頂を済ませ、シティへ戻った。

その夜、僕はアランの自宅に招かれた。自宅では、アランの奥さんであるカナダ人のハイディが手料理作って待っていてくれた。ハイディもメキシコ式の挨拶だと言って、初対面の僕をギュッとハグしてくれた。すると不思議なことに、ハイディのハートはとても熱く僕のハートまで鋭敏に反応した。彼女はとってもハート・チャクラの開けた人なのだろう。

彼女は誰とでも分け隔てなく優しく接する事が出来るし、僕はそんな彼女と結婚出来て本当にラッキーだとアランはのろけていたが、その意味が直接的にわかった。そして彼女は僕に天使を紹介してくれた。愛娘のミラちゃんである。アランが“ビューティフル・ベイビー”と連呼するもの無理はない。本当に可愛い。大きな青い眼が印象的だった。

僕らはハイディの手料理を食べながら、まるで古くからの友人のように語り合った。ここでもやはり旅の話や音楽、日本やメキシコの文化についてがほとんどだった。宴もたけなわになってきた頃、彼女は僕に今回の旅の目的を訊いてきた。僕はこれまでの3年間の経緯を簡単に説明し、メキシコへはこれまでのすべてを清算し、新しい人生を始めるための活力を得るために来たことを話した。そして失いかけているものや、本当に大切なものの事についても…。

彼女は頷きながら訊いた。

「で、メキシコに来て答えは見つかった?」

「うん、見つかったよ…」

僕はアランやハイディの姿にその答えを見つけていた…。

⑧番外編:アメリカ人とそのホスピタリティ

3月31日早朝、僕はメキシコ・シティを後にし帰国の途についた。途中、サンフランシスコで飛行機を乗り換え、中部国際空港に向かうことになっていた。しかし午前6時に飛び立つはずのユナイテッド機はなかなか離陸せず、結局約1時間のディレイとなった。

サンフランシスコでの乗り換え時間は2時間なので、残り1時間しか残されていない。ギリギリである。面倒な事に、サンフランシスコではトランジットであっても一旦荷物を受け取って入国し、それから再度荷物を預けるという面倒なシステムになっている。空港も広い。

この時点で僕に焦りはまったくなかったが、状況は僕の楽観視をどんどんと覆していった。飛行機を降りた僕は、まず入国審査に向かった。指紋を取ったり顔写真を照合したりと煩雑であるが、割とスムーズに人の流れは進んでいた。

そして僕の番になった時、突如として異変が起こった。係官がパソコンに向かったままブツブツと何かつぶやいている。そして一向に審査を進めようとしない。どうしたのか訊ねると、システムがダウンしたというのだ。隣のブースもパソコンがダウンしている。僕は眼を疑った。

「おいおい、ここは天下のアメリカさんだろう?」

と、思わず皮肉めいた言葉を口走った。僕は焦り始めた。

「ねえ、次のフライトまで時間がないんだけど…」

ロビン・ウィリアムスをスキンヘッドにしたようなその係官は、僕の都合にまったくお構いなく、一向に再起動しないパソコンのキーボードをカチャカチャ打つばかりだった。

「不幸にもシステムがダウンしてしまった。時間がないのはわかるが君はここで待つ以外にない」

まるでマニュアル。まるで他人事。

やがて他の係官がやってきて復旧を試みるが、一向に埒が明かない。もうフライトの時間まで25分を切っている。この頃には、流石に僕の余裕もどこかへ吹き飛んでいた。しばらくしてやっとシステムが復旧したが、もう時間がない。

僕は近くにいた責任者っぽい男に、エスコートの期待を込めて

「俺は飛行機に乗れるのか?」

と訊いたが、彼はあっさりとこう答えた。

「わからない」

それは、もし乗れなかったとしても我々の感知するところではなく、すべてはお前の責任であるという悪意を語感に隠していた。

「なんちゅう国じゃ~!!」

堪忍袋の緒が切れた僕は、日本語で捨て台詞を吐きながら空港を駆け抜けた。重いバックパックを受け取り、これを担いだまま出発ロビーへと急いだ。もう15分しかない。やっとの思いで荷物カウンターにたどりつくと、係りのおばちゃんは

「もうこの荷物は載せられないわよ」

とのたまわった。

「じゃあ、どうするんじゃい?」

と切り返すと、エージェントがあなたを飛行機まで誘導してくれるはずだから、ここで待てと言う。

「ここで待てだと!もう15分切ってるんだぞ」

しかし、エージェントが来るのならこれで万事うまくいくだろう。彼が飛行機まで僕をエスコートしてくれるはずだからだ。そして軽くステップを踏みながらウィル・スミスがやってきた。しかし僕の期待は見事に打ち砕かれることになる。彼は他人事のように僕にこう言った。

「この荷物を持って直接飛行機まで走れ!そこを真っ直ぐ行って階段を上に上がるんだ!急げよ」

僕は開いた口が塞がらなかったが、皮肉を言う暇もない。全力で階段を登った。ところがここで、また難関が待ち受けていた。荷物チェックである。アメリカは9.11の同時多発テロ以降、必要以上に荷物チェックに過敏になっている。ここでも長い行列が出来ていた。

僕はトランシーバーを持った係官に、時間がないことを告げ、先に通してくれるように頼んだがまるで知らん振り。行列の後ろに並べというばかりで、まったく取り合おうとしない。

いったい何なんだ。この国は!このホスピタリティのなさは、いったいどこからやってくるのか。大国としての驕りか。それとも極度にまで高められた猜疑心か。確かにアメリカは自己責任の国だと聞いている。それはわかる。しかし飛行機のディレイは僕の責任ではない。入管のシステムがダウンしたのも違う。

この国ではビジネスにおいても、徹底した分業制を敷いていると聞いたことがある。つまり、会社員は歯車の部品であり不具合があれば取り替えればいいという思考である。だからアメリカのビジネスマンには、スペシャリストはいてもジェネラリストがいない。

同様に空港においても、自分の仕事に関しては責任をもって遂行するが、その範疇から少しでも外に出る仕事に関してはまったく無関心なのだろうか。日本では考えられない。

以前北海道の千歳空港で、今回同様飛行機に乗り遅れそうになった経験がある。しかしその時は、空港の係員が責任を持って飛行機までエスコートしてくれた。荷物チェックも優先的させてくれたのである。

それが当たり前だとは言わない。しかし、このホスピタリティのなさと柔軟性のなさはまるでロボットのようだ。いや、それではロボットに申し訳ない。ロボットの方がもっと臨機応変かもしれない。

結局僕は列の最後尾に並んだ。もう5分を切っている。荷物チェックは執拗なぐらい細かく、ベルトだけではなく靴まで脱げという。おまけに僕のハンドバッグを何度も何度も確認する。

「ホント、もう勘弁してください…」

精根尽き果てた僕は、それでも気を取り直して出発ゲートにダッシュした。もうフライト時刻は過ぎている。これで乗れなかったらいったいどうなるのだろう。この段階に来て初めて、後ろ向きな発想が頭を支配した。

もしこの飛行機に乗れなければ、まず飛行機会社と交渉するしかないが、この状況ではしかるべき配慮は期待出来ない。そうなると新しいチケットを買うしかなくなる。しかし、手持ちの現金はもうほとんどない。サンフランシスコの街に出て宿泊する必要も生じるだろう。

この件に関して僕のミスは皆無なので、新たに生じる飛行機運賃などの費用は一切支払う気はない。そうするためには裁判を起こすしか方法がないのかもしれない。そうなると証拠も集める必要がある。費用はいくらぐらいかかるだろうか…。僕の頭の中に、裁判のシュミレーションが瞬時に駆け巡った。

そもそもである。ここに勤務する一人一人がもう少しだけでも思いやりの心を持って、乗客のために動いてくれたら、こんな事態には陥ってないのではないだろうか。そうしたホスピタリティのなさが信頼関係の欠如を生み、訴訟によってしかトラブルを解決する方法がない社会を創り出しているのではないだろうか。

僕はつくづく日本人でよかったと痛感した。こんな社会ではとても耐えられない。もちろん、日本にもアメリカにも良い部分も悪い部分もあるのが、こと“おもてなしの精神”に関しては間違いなく日本はナンバー1であろう。

裁判なんて冗談じゃない。

最後まで諦めなかった僕は、なんとか名古屋行きの飛行に乗り込むことが出来た。息を切らしながら飛び乗る僕に、フライトアテンダントは冷たい視線を投げかけたが、僕は笑顔で愛嬌たっぷりに返してやった。

当然、眼は笑ってなかったが…。